希望大国ブラジル(その26) 日伯の懸け橋 変貌する「もう一つの日本」

希望大国ブラジル(その26) 日伯の懸け橋 変貌する「もう一つの日本」

日伯の懸け橋 変貌する「もう一つの日本」

 時のかなたから聞こえてきたような、か細い日本語だった。ブラジル南部パラナ州の田舎町ホンカドルで暮らす日本人移民の池上俊光さん、87歳。

 「わたしは名古屋の中心地に生まれました。父親は理髪店をやっていた。だいぶん昔のことです」

 12歳だった昭和10(1935)年、一家で海を渡りコーヒー農園で働いた。土地を買って移り野菜を作った。

 「カフェ摘みの仕事は大変だった。早く言えば奴隷扱い。苦労しましたよ」

 質朴な寝室の薄青色の壁に昭和天皇と香淳皇后、皇太子時代の天皇、皇后両陛下、そして父母のモノクロ写真が額に入れられ、上から順に飾られていた。

 日本へは一度も帰国していない。帰りたくないかと尋ねると、「ひと苦労しました」と繰り返した。傍らで妻の2世、ツヤコさん(79)が話した。

 「日本で貧乏したから、もう戻りたくないんです。もう日本は豊かになったと言っているんですけど」

 ブラジルから地球をぐるりと回った日本の神奈川県綾瀬市。池上さんの孫で3世のメスキタ・ファビオ池上さん(29)は工業団地の食品工場でコンビニ店向けのパスタを作っていた。マスクをつけても粉でまつげまで真っ白になる。

 14歳だった1996(平成8)年、一家で海を渡り工場で働いた。現在の時給は1050円。

 「日本へ来て15年になる今、考える。おじいちゃんはどんな思いで異国へ来たのだろうか」

 BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国)の一角、ブラジルには海外最大の日系社会がある。日系人は日本人とその子孫、日本人の血が流れる人々を指し、日本生まれを1世、海外生まれを2世、3世などと呼ぶ。世界中で300万人と推定され、ブラジルは150万人と半分を占める。

「経営者は中国人」

 赤い大鳥居やちょうちん形の街灯が続く街に日本語の看板があふれる。サンパウロ中心部、南北1キロに商店400軒が並ぶリベルダージ地区。かつては「日系人街」だったが、中国、韓国系の店が増え「東洋人街」になった。近年は中国・台湾勢が席巻しチャイナタウンと化しつつある。

 街で生まれ育った2世の不動産会社勤務、菊地ミエ・スエリさん(59)は「みんな日本語で書いてあるけど、経営しているのは中国人。こんなに増えるとは思わなかった」と話す。

 街角の壁に、赤い中国服を着て両袖を合わせた中国娘を描いた落書きがあった。

 日系人と日系社会の存在ゆえにブラジルは有数の親日国といわれ、日本からの進出企業も「ビジネスで日伯の懸け橋に」と期待を寄せる。だが明治41(1908)年の最初の集団移民から100年がすぎ、150万人のうち23万人はファビオさんのように日本で働く。日系人も日系社会も様変わりしていた。

世界企業支える「頭脳」

 宇宙開発に匹敵する技術の一端を、日系移民の息子が担っていた。国営石油会社のペトロブラスが大西洋で操業する超深海油田「プレサル」。サンパウロ大学のカズオ・ニシモト教授(57)=海洋工学=は、海に浮かぶ巨大な石油生産基地から2キロ下の海底までロープを垂直に下ろし係留する技術を開発した。

 「世界でもわれわれ独自の技術だ。最初は500メートルすら無理と笑われたが、今は3千メートルも視野に入った」

 船舶の係留には通常鉄製ワイヤが使われるが、1千メートル以上の深海では荷重が強くなりすぎ、つないだ船が沈む危険さえある。ニシモト教授らは比重が水とほぼ同じで、鉄より軽いポリエステルを採用した。専用のいかりや石油をくみ上げるパイプも作った。これによりブラジルは海底からさらに5キロの地底に横たわる油層へ初めてたどり着けた。

 ニシモト教授は東京五輪が開かれた昭和39(1964)年、工業移民の両親に連れられ三重県四日市市から移住した。9歳だった。父は冶金工場で働き、その後に花店を開いた。明治41年から戦争を挟んで近年の平成6年まで88年間続いた日本からの移民24万人の一人だった。

農業移民から出発

 日本人は当初、大半が農業移民だった。やがて商工業や政財界、法曹界など各分野へ進出していった。最高学府であるサンパウロ大学の学生の14%は、総人口の0・7%にすぎない日系人が占める。中央官庁には400人が働いているという。

 世界3位の航空機メーカー、エンブラエルの技術担当副社長は2代続けて日系人が就いている。ともにブラジル中の頭脳が集まる航空技術大学校(ITA)を卒業した。

 サトシ・ヨコタ前副社長(70)は「私が学生のころは100人のうち20人ほどが田舎から出てきて必死に勉強した日系人だった。今やその役目は中国人や韓国人が担っている」と指摘した。

 ニシモト教授は「プレサルを誇りに思う。現在の日本人に、そうした大きな夢を持って未知の分野へ挑戦する人が少なくなったと感じる。日本をルーツに持つ者として日本人には心から頑張ってほしい」と話す。

「ニッケイ」離れ

 戦前の移民はブラジルで金を稼ぎ数年で帰国する出稼ぎ目的だった。その多くは日本の敗戦により異国に骨を埋める覚悟を決めた。

 日系社会の研究機関、サンパウロ人文科学研究所顧問で2世の宮尾進さん(81)は「彼らは帰国に備え子供を日本人として教育し日本語を教えたが、戦後はブラジル社会で上昇するためポルトガル語で高い学歴を身につけさせることに最も力を注いだ」と指摘し、こう続けた。

 「その結果2世、3世以降はブラジル社会で飛び抜けた高学歴となり、一般のブラジル人よりはるかに高い所得を得て各界へ深く浸透していった。一方で彼らは日系社会を遠く離れ、ついに帰ってくることはなかった。日系社会は1世の高齢化とともにやせ細った」

 リベルダージに本社を構える邦字紙、サンパウロ新聞とニッケイ新聞。日本語を読む移民1世が5万人まで減った現在、部数は公称3万部弱と1万部。主な読者は70代以上という。

 ニッケイ新聞の深沢正雪編集長(46)は「邦字紙が役割を終える日がひたひたと迫っている」と話す。

 150万人の日系人といっても、日系社会へ帰属意識を持ち何らかのかかわりを持つ人は10万人に満たないと宮尾さんは推測する。

 「日系人という意識も薄れてきている。30年もすればニッケイという言葉も消えるのではないか。だが、失われるのは言葉だけではない」

-産経ニュースから-

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