希望大国ブラジル(その30) エピローグ・日伯新時代 震災が育む在日日系ブラジル人との絆

希望大国ブラジル(その30) エピローグ・日伯新時代 震災が育む在日日系ブラジル人との絆

エピローグ・日伯新時代 震災が育む在日日系ブラジル人との絆

 がれきの中で日本人のおばあさんを抱きしめた。「ありがとう、ありがとう」。彼女は泣いていた。ブラジルから来日し神奈川県愛川町に住む日系2世、福本オスカー博之さん(35)は東日本大震災で被災した福島県いわき市でがれき撤去のボランティアをし、父祖の国の人々との距離が縮まるのを感じていた。

 「日本へ来て10年になり、何かせずにはいられなかった。黙って見ていることはできなかった」

 福本さんはサンパウロ州の町で生まれ育ち、母の故郷である宮崎県へ留学したのを機に日本で働き始めた。現在はウェブデザイン業の傍らコンビニ店向けの弁当工場や自動車部品工場で働いている。

 在日日系ブラジル人は平成22年末時点で23万人。20年秋のリーマン・ショックで8万人が帰国したものの、中国と韓国・朝鮮籍の次に多い。

 震災では日系ブラジル人たちも被災地へ駆けつけた。ブラジルの日系社会は義援金を寄せ、財団法人海外日系人協会によると総額は約6億円に上った。

 協会の西脇祐平調査役(49)は話した。

 「これほど多くの義援金が寄せられたのは戦後の『ララ物資』以来だった」

ブラジルの大地で出会った日系人たち。新たな日伯関係は彼らとの絆から始まる

「母国の再興を」

 ララ物資は戦後、米国の日系人の尽力により民間団体が日本へ送った衣服や食料、文具などの救援物資を指す。中南米へも広がりブラジルの日系社会からも多くの物資が届いた。

 東京都内で日系ブラジル人労働者の支援団体を運営する元会社員、加藤仁紀さん(70)は4歳だった敗戦時、旧満州から引き揚げる途中で医師だった父を亡くした。仙台市の母子寮で暮らしていた小学生のとき、ブラジルからラグラン袖の上着が届いた。

 母の満(みつ)さんはブラジルへあてて礼状を書いた。移民の一人から返事が来た。

 《渡伯36年になります。私ども海外に居りますが、一日も早く母国の再興を希望いたす次第であります》

 2年前に101歳で亡くなった母は、加藤さんへこう繰り返したという。

 「日本人移民はブラジルで温かく迎えられた。だから今、日本へ働きに来ているブラジル人を同じように迎え入れ、同胞として大切になさい。そして彼らの祖父母や父母が窮乏する日本国民を助けてくれたことを決して忘れないように」

 今回の国難でも地球の反対側に父祖の国の一日も早い復興を願う人々がいる。

成功者出したい

 希望大国、ブラジル。

 資産運用会社「UBSグローバル・アセット・マネジメント」の岡村進社長(50)は「欧州危機の影響で新興国の減速が懸念されているが、長い目で見れば結局は資源を持つ国が強い。ブラジルが希望の大国であることに変わりはない」と指摘する。

 われわれは今後、日伯関係をどう深めていけばよいのか。

 神奈川県藤沢市で土木会社を営む2世、茂木真二ノルベルトさん(47)は震災直後、トラックに重機と救援物資を積み、宮城県名取市や石巻市で遺体の捜索やがれき撤去のボランティアを続けた。

 滞日19年。高校3年を頭に3人の娘は日本で生まれた。茂木さんは「リーマン・ショックで出稼ぎ目的の人はみんな帰国した。残った者は日本で頑張る覚悟を決めた人たちだ。日系ブラジル人から成功者を出したい。そのためにはもっと日本語と日本の文化を学び、社会へ溶け込む必要がある」と話す。

 それは66年前、祖国の敗戦によりブラジルへ骨を埋める覚悟を決めた日本人移民の姿とも重なる。われわれが彼らにできることは何だろうか。

 ブラジルと日本で暮らす同じ日本人の血を引く彼らとのかかわりこそが、新たな日伯関係を築く礎(いしずえ)となる。「希望大国」との固い絆になる。

完了

-産経ニュースから-

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