希望大国ブラジル(その29) 農業という最大の貢献 息づく日本の「産業組合運動」

希望大国ブラジル(その29) 農業という最大の貢献 息づく日本の「産業組合運動」

農業という最大の貢献 息づく日本の「産業組合運動」

 巨大農場で「3本の矢」の青いマークに迎えられた。ブラジル東北部バイア州の辺境地帯、4万3千ヘクタールで綿花や大豆を生産する農事企業「ホリタグループ」。日系3世の堀田3兄弟が経営し、マークは3本の矢を束ねれば強くなることから3兄弟の結束を訴えた毛利元就の逸話にちなんだ。

 長男のリカルド・リョウスケさん(54)は「こまい(小さい)ときから、おじいちゃんに繰り返し聞かされてきた」と話した。次男のウィルソン・ヒデキさん(51)と14の農場を管理する。三男のバルテル・ユキオさん(48)は財務や「穀物メジャー」と呼ばれる欧米の穀物専門商社との交渉、資機材の購入を受け持つ。

 祖父は1938(昭和13)年、熊本県から移民しコーヒー農園で働いた。南部パラナ州へ移り野菜を作った。3人目が成人した84年、この地に1200ヘクタールの土地を買い、兄弟は大豆袋の上で眠って働いた。

 リカルドさんは「ここまでできるとは夢にも思わなかった。ブラジルは土地も、可能性も大きい。20年前、ホテルへ泊まって職業欄へ『農業』と書くことは何か恥ずかしいことだった。今は大きな満足感と誇りを持っている」と話す。

野菜を食卓に

 ブラジルで柿を「カキ」という。日本人移民が持ち込んだためだ。ぱらぱらの長粒種だけだった米は日系人が短粒種を栽培した。野菜を食べる習慣のなかったブラジル人の食卓に野菜が欠かせないものとなった。

 最大の貢献は「農業協同組合」だった。農産物を仲買業者に買いたたかれないよう、共同で市場へ出荷したもので、1927(昭和2)年にサンパウロ郊外コチア村で生まれた「コチア産業組合」は戦後、南米最大の農協となった。当時のわが国で盛んだった「産業組合運動」に範を取ったものだ。

 東京学芸大学の矢ケ崎典隆教授(59)=地理学=は「ブラジルはコーヒー農園や牧畜などの大規模経営であり小農組織は存在しなかった。戦後、日系農協はブラジル人が加わって成長した。コチアなどは最終的には消滅したが、ブラジルの産業の発達に果たした役割は大きい」と指摘する。

 コチアとスール・ブラジル農産組合の日系2大農協は94年、破綻し解散した。

農協立て直し

 ミナスジェライス州の高原の町サンゴタルドへ日系農協を訪ねた。前身はコチアの下部組織の支所であり、全国組織の解散後も形を変えて存続している農協の一つだ。大きなかまぼこ形サイロの壁に「CACCC(コチア産業組合中央会)」の文字がうっすら残っていた。

 近くの集荷場で、コンベヤーを流れてくるつやのあるニンジンを前かけ姿の若者たちが手際よく洗っていた。日系人が始めた生産は全土の半分を占め町は「ニンジンの都」と呼ばれる。

 農協の農業技師で2世のセルソ・ヒデト・ヤマナカさん(47)は「国の保護がない中で大農や穀物メジャーと伍していくのは大変だが、団結することで小農の弱みを克服できる。これまで乗り切って来られたし、これからもやっていけると思う」と話した。

 ブラジル協同組合協会の2009年の統計によると、農協はブラジル全土に1615あり組合員は94万人。国内農業生産の37%を担う。

 ゴイアス州の町で大豆や野菜を生産し地元農協の組合長も務めたオズマル・サルバラジオさん(44)の言葉が耳に残った。

 「農協は90年代初めに破綻が続いたが、『商社と異なり農協は組合員のものだ』という意識改革で立て直した。私も商社とドル建てで取引したが、現在は為替差損リスクのないレアル建てで農協へ出荷している。日本は反対に組合離れが進むと聞くが、なぜなのか」

カテゴリー: 

言語

Brasil

Japão

連絡先

www.samicultura.com.br

携帯: 55 92 98108-3535
E-メール: hisashi_umetsu1948@yahoo.co.jp
Go to top