希望大国ブラジル(その28) アマゾンを拓いた日本人 「高拓生」の歴史に光

希望大国ブラジル(その28) アマゾンを拓いた日本人 「高拓生」の歴史に光

アマゾンを拓いた日本人 「高拓生」の歴史に光

 小高い丘に墓標のように白い木柱が建っていた。ブラジル・アマゾンの町パリンチンス近郊のビラ・アマゾニア。かつて「八紘会館」という名の神社のような建物があった。はるか日本から入植し密林を開拓した、「高拓生」と呼ばれる若者たちの拠点だった。

 子孫らでつくるアマゾン高拓会会長でアマゾナス連邦大学の元副学長、佐藤バルジルさん(59)は「父親たちの偉業を後世に伝えることが使命だと思っている」と話した。

 高拓生は戦前、現在の川崎市にあった開拓指導者の養成校、日本高等拓植学校の卒業生だったことからこう通称された。この地に実業練習所や農業試験場、気象観測所、診療所から成るアマゾニア産業研究所が設立され、ブラジルで初めてジュート(黄麻)の栽培と商品化に成功した。

 ジュートは、コーヒー豆など農産物の輸出に欠かせない麻袋の原料でありながらインドからの輸入に頼っていた。日本人の手で始まったジュート栽培は戦前のアマゾン経済の35%を占める一大産業へと発展した。

 佐藤さんは「その偉業は歴史から消されてしまった」と複雑な表情を見せた。日米開戦で連合国についたブラジルは研究所の財産を接収し、ジュートを栽培する高拓生を除き日本人を敵国人として抑留した。

「行け南米の理想境」

 日本高等拓植学校は昭和6(1931)年から12年の閉校まで7年間に248人をアマゾンへ送り出した。中心となったのはブラジル移民の父といわれた上塚周平の甥で、熊本県選出の衆院議員を務めた上塚司だった。上塚は当時、国民雑誌キングでこう呼びかけた。

 《同胞よ! 行け南米の理想境 大アマゾンの日本新植民地 台湾九州四国を併せた大面積の処女地が、新に日本の植民地として諸君の開発を待つ》

 同志社大学人文科学研究所の野口敬子元嘱託研究員=アマゾン移民史=は「高拓生は上塚司の理想に共鳴した若者たちであり、中流家庭の子弟が多かった。そればかりか、男爵の家柄や海軍少将の五男もいた」と指摘する。

 だが、低湿地帯にヤシの葉でふいた屋根の家、土をこねて作ったかまど、蚊が大量発生するため蚊帳を2枚重ねて寝る生活に、日本への帰国者やサンパウロなどへの転住者が相次いだ。

60余年ぶり名誉回復

 今年は高拓生のアマゾン入植から80年を迎えた。八紘会館の再建に向けた動きもあったが、東日本大震災に見舞われた祖国の惨状に配慮して延期された。代わりに義援金が送られた。

 高拓生2世の東海林ウィルソンさん(62)は「歴史を残すのは自分たちの務めだが、今やらなければならないことは祖国の支援だと考えた」と話す。

 10月25日。アマゾナス州の州都マナウスの州議会には東海林さんの父、善之進さん(97)の姿があった。ブラジルで生存する高拓生はマナウス在住の善之進さん、千葉守さん(100)ら3人のみ。

 州議会はその日、高拓生のジュート栽培によるアマゾン経済への多大な貢献を認め、公立学校の教科書で教えること、そして「戦時中に不当な扱いを受けたことへの公式な謝罪」を盛り込んだ新たな法律を可決した。日本で彼らの歴史が忘れられる一方、ブラジルは彼らの名誉を回復した。

 善之進さんは高拓生の生存者として名誉州民章を授与され、壇上に立った。

 「私は最後の生徒であります。仙台からアマゾンへ入植し、我慢に我慢を重ねて生きてきた。だが、日本人としての誇りを忘れたことは一度もありません」

-産経ニュースから-

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