植民地全盛時代の16、17、18世紀には、各国とも獲得した海外の植民地に貴重な香料、香辛料、染料作物及び薬草を栽培、価格維持のため専売制度をとった。
原植物や苗、種子の管理は厳しく、海外への持ち出しを厳重に取り締まって外国への移植を防いだ。それでこれらの栽培植物をめぐって、各国とも秘術を尽くしで種子や苗の盗み会いが始まる。
他国が持ち出しを禁止しているのを盗み出すのだから、ドロボウ行為には違いないのだが、盗み出す方も自国の国家的利益のためにやるのだから、相手国にとってはドロボウでも、自国では英雄となる。
一番激しかったのは、チョージ(丁子)とニクヅクをめぐるイギリスとオランダの攻防戦で、実に30年に及んだ。
チョージュもニクヅクもモルッカ諸島が原産だがオランダは価格維持のため、チョージは同諸島中のアンボン島にのみ、ニクヅクはアンボン島とパンダ島のみの限って栽培し、厳重な管理の下に種子、苗の持ち出しを禁止した。
イギリスは1788年マレー半島のペナンを領有して以来、同地でのチョージ、ニクヅクの栽培を計画、何度もアンボン島よりの苗の持ち出しをはかったが、オランダ側の防御の壁は厚く、そのたびに発覚して成功しなかった。
しかし、遂に1819年、30年振りにイギリス人ラフレスによる苗の盗み出しに成功、マレー半島に移植することが出来た。
こういうことにかけてはイギリスは執念深く、また手口もなかなか巧妙だがアマゾンのゴムも1876年、イギリス人にしてやられた、大草の種子をメレー半島に持ち出された。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて狂乱の仇花を咲かせたアマゾンのゴム景気については「脚光を浴びたゴムのアマゾン」に述べてあるが、ブラジルも他国の例にならってパラーゴム(エベア・ブラジリエン・シス)種子の持ち出しを厳禁していた。
ブラジル政府もアマゾン河口に検査所を設け、厳しくチェックしていたのだが、ベテランのイギリスにとっては広大なアマゾンから種子を盗み出すのはなんでもないことだった。
1876年、イギリス人ヘンリー・ウイリアムはラン(蘭)の収穫家と称してアマゾンに入り込み、タパジョス河下流に滞在、ゴムの開花期を待って種を集め、いくつかの梱包にし、包みには「ラン」のレッテルを張り付けた。
準備万端整ったところで、あらかじめ打ち合わせていたイギリス船が入港、ウイリアムは「ラン」の包みを持って乗船、悠々と引き揚げて行った。このイギリス船の名前が「アマゾナス」号というのだから、偶然にしても全くブラジルをバカにしている。
イギリスに持ち去られた種子はセイロンで植えられ、次いでマレー半島に移植され、24年たった1900年、はじめてアジアにおけるパラーゴムの産出がはじまった。
この時代は今のように情報が発達していなかったから、ブラジルは長い間、盗まれたことに気がつかなかった。
ブラジルがほんとうに事態の深刻さに気が付いたのは、1906年、バイア州選出の下院議員ミゲール・カルモンがアジア旅行をした際の報告を受けてからで、政府はあわてて対応策を講ずるが、時、既に遅く、数量的にも価格的にもアジア産パラーゴムの前には歯が立たなかった。
以後アマゾンのゴムは急速に衰退の一途を辿るが、未だにゴムに代わるような有望な産業を見出し得ないのだから、イギリス人による種子の持ち出しは痛かった。
<サンパウロ新聞 アマゾン学のすすめ>から
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