凄惨なパラーの内乱―1

凄惨なパラーの内乱―1

ブラジルという国は他のラテン・アメリカ諸国とは異なり、1822年の独立でさえ血を流さなかった無血革命だったから、百五十年かの歴史でそう大量に死者を出した戦いはないと思っていた。 国境をめぐる隣接諸国との戦争や、国内の革命内乱のあったことはもちろん承知している。 しかし、それとて数百か数千の生命が失われる程度だと、うかつにも思い込んでたが、アマゾンの歴史を調べ驚いた。 「カバナージェン」或るいは「モチン・ポリチコ・ド・パラー」と称される1823年から1840年のパラー州の内乱ではなんと四万人の人命が失われているのである。特に1835年から40年の六年間では三万人の死者が出た。 この記述を読んだ時、私は記述の間違いか誇張だろうと思った。 ―1830年代のアマゾンは、日本の14倍という全域を合わせても未開のインジオを除けば三十万ぐらいしか人口はないのである。 三万人とか四万人と云えば、全人口の一割、またはそれ以上の数となる。大量殺人兵器の発達していないこの時代の、しかもアマゾンで、通常の戦闘行為による死者が何万人などとは考えられない-。 これが私の「常識」であり、反論の根拠であるが、どうも気になって仕方がなかった。 そこで知り合いのパラー大学の先生に聞いてみたら、「エストランジェイロ(異国人)がそんなことに興味を持つとは関心」と、妙な褒め方をしながら「モンテス・ポリチコス」(ドミンゴス・ラフォール著、全三巻、パラー大学刊)を貸してくれた。 通読して私は自分の認識の浅薄さに恥じ入ったと同時に、内容のものすごさに度肝を抜かれた。 四万人の死者はほんとうだったが、そのほとんどは虐殺、屠殺によるものだったのである。以下少し詳しく述べてみよう。 この時代のブラジルは独立後間もなく、ブラジル帝国の基盤は脆弱で、東北伯の各地で政治的対立から内乱がおこっている大抵の場合は大きな内乱には発展せず、時と共に収まっているが、パラーのカバナージェンは、抗争期間の長さと犠牲者の多いことで異様である。 内乱の原因は、最初はどこにでもあったような保守派(ポルトガル派)と革新派(ブラジル独立派)の政治的対立だったが、後にはポルトガル人(白人)対有色人種、支配階級対被支配階級の抗争にエスカレート、階級闘争、人種闘争の性格を帯びてくる。 内乱はいくつかの段階に分けられるが、1835年、31歳のシリンゲイロ(ゴム採取人)エドアルド・アンジェリンが革命軍の指導者となり、ベレンの政府軍を駆逐、革命政府を樹立するころから凄惨な様相を呈してくる。 ベレンを占拠した革命軍は、逃げ遅れた政府関係者、政府軍兵士、ポルトガル人、金持階級を探し出し、見つけ次第虐殺した。 革命軍の暴徒化は日増しにひどくなり、掠奪、破壊、放火、暴行、殺人、強姦がいたるところで発生した。 殺し方も文字通り耳をそぐ残忍なやり方で、女、子供とて容赦はなかった。女は必ず裸にされ、強姦されてから殺された。 革命軍の兵士はもともと被支配階級の労働者、つまりカボクロで、知性教養、道徳心のない連中がほとんどだったが、この時に演じられた虐殺、掠奪、破壊のありさまは人間がどれほど野獣になれるかの極限の見本のようか観があった。 工場や商店は閉ざされ街の機能の一切麻痺し完全に無政府状態になった。道には雑草が生い茂り、食糧難が襲って来た。食糧難は暴徒達の蛮行に拍車をかけることになり、一般市民への掠奪、暴行が相次いだ。 <サンパウロ新聞 アマゾン学のすすめ>から

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